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2005年 01月 30日
わたしたち「はなれエス」は、確かに失ったものが大きい。
また、周囲の人々に迷惑をかけたことは、償わなければいけないと思ってます。 わたしは、両親にたくさん迷惑をかけました。 また、既婚の方々は、ご主人や奥さんに対して申し訳ないと思っている方もいることでしょう。 でも、昨日、出演していただいた九龍さん(ニックネームOKしてくれました)の体験を聞かせていただくと、やっぱり夫婦っていいな って思います。 先日、テレビをつけると、あの六星占星術の細木数子がでていました。 わたしは、“貧乏暇なし”で、あまりテレビを見ないので、いったいこの人が何者なのかよくわからないのですが、最近ちょっと、ハマッテます。 もちろんこの手の人には免疫が出来ているので、六星占星術の本を買ってきたりなどしませんが、そのテレビ番組の中で、彼女がドイツの文豪ゲーテの言葉を引用していました。 「結婚は、文化のはじまりであり、頂点である」 ゲーテがどこでこのようなことを言ったのかは知りませんが、この言葉が妙に頭の中をめぐってます。 エスをはなれてから、ここしばらくは、空回りだらけでも必死で、社会のこと、人間のことを学んできたつもりです。 でも、まだ結婚は、なにか重たい荷物のように思っていたところがあったのですが、その重たい荷物を背負って生きてみたい。その荷物がないとフワフワとどこかへ飛んでいってしまいそうなわたしです。 あ、こんなことを今回は、書き込もうとしていたんじゃなかったんだ。 「エスをはなれて」へ出演要請に応えてくれた方々が、数名います。 そのうちの一人Nさん。 いま、彼からの原稿を待っているところなのですが、この人とわたしは、毎年一回だけ、それも正月に会い、必ず言い争いをして、最後に「また会おうな」と言ってちょっとだけ仲直りする間柄です。 何しろ言うこと為すこと癪にさわる。考えていることがまったくわたしと正反対。いや、でもひょっとしたら、似ているから癪にさわるのかも。まあ、いい関係なんじゃないでしょうか。 でも、なぜ、これだけ考えること感じることが違うのか考えてみると、これはタイプの違いなんだと思います。 わたしは実は美術関係の仕事をしている(ようするにほとんどお金にならない)のですが、たとえば、美術品を鑑賞するとき、百人百様の感じ方をするものです。 「ほお、これは、いまから数百年前に、どこそかで制作されたもので、○○派の影響を受けているからこのような表現をするんだな。なるほど」 これは、論理的に物事を観察するタイプ。 「ワぁー素敵!なんてすばらしいんでしょう。これ大好き!ワンダフル!」 これは、感情面が発達しているタイプの鑑賞の仕方。 「うん。この色の使い方がいい。このカタチにこの色の取り合わせは、面白い。こんど私の洋服にも取り入れちゃおう!」 これは、感覚的なタイプ。最近この手の人々が街を征服している。 「・・・! そうだこれだ!私の心の中にある何物かがいま目をさました」 これは直感的なタイプ。ようするに常人には何を言っているのかよくわからない。 実はこのタイプの分け方は、あやしくて偉大な心理学者ユングのタイプ論をわたしなりに解釈してみたのですが、ほかにもいろいろなタイプの分け方があると思います。 このタイプが違うということを前提にしないと、意見が違うときにケンカになります。 どうしても、論理的に物事を考察する人が、議論すると勝つ傾向がありますが、よく考えると、先に紹介したタイプは、論理的(理性的)タイプのほかは、みんな“感”の字が入るタイプです。 よって、論理的に物事を判断して、行動する人々は少数ということになります。 そして、その少数の人々は、ほかの大多数の人々を「バカ」だと考えることが多い。 しかし、世界はそんな少数の人々には目もくれず、他の“感”の字が入っている人々によって動かされる。 これは極端なたとえですが、同じ「はなれエス」でも「神慈秀明会」に対する考え方や感じ方がみんな違うということをお互い知る必要もあると思うのです。 「神慈秀明会は、悪徳集団だ!世の中から抹消してしまったほうがいい!」 「いや、秀明という組織がいけないんであって、俺はそこにいる人たちとは今後も付き合っていたい。」 「秀明は、たしかに不正を行なった。だから罪を償う必要がある。だけど私は奇跡を体験した。だから、やはりそこに明主様、あるいは神霊といわれるものがあるのではないか。だから、まったく無くしてしまうのではなく、不正を犯した原因をさぐり、その元凶というものを処罰すればいいのではないか」 「宗教自体が必要ないものだ!宗教をすべてなくしてしまえばいい!」 「わたしは秀明をやめたけど、そんなに悪い集団だったとは思っていない」 これらは、わたしが、被害者の会を募ろうとしたときに聞いたさまざまな考え方。または、それぞれが秀明をどのようになってほしいかという最終到達地点。それこそ百人百様でした。 実際、秀明を相手に裁判を起こしている人でさえ、みな考え方が違っていたのです。 その最終到達地点で一つにくくろうとすると、まったく結束できません。 それを誰か一つの意見で強引に束ねようとすると、しまいにはお互いが憎みあうようになります。 「はなれエス」同士で憎みあっては何にもなりません。 たしかに議論して意見を交換しあうことは必要なことです。でも、このタイプがもともと違うのだ、ということと、最終到達地点は強引には一つにくくれない、ということをお互いが心得ておく必要があると思うのです。 だから、もし、「アンチ・秀明」で何か具体的なことを起こそうとした場合、このずっと先の最終到達地点を話し合うよりも、お互いが手に届くところで何ができるだろうという議論のほうが有効だと思うのです。 わたしはいつもこういうほうへ話を持っていってしまうのすが、これもタイプですね。 「はなれエス」は、みんな『戦友』だと思ってます。 初対面でも、「はなれエス」だと知ると、とたんに旧知の仲のように思えてしまいます。 わたしたちは、失ったものが多いけど、唯一残った宝は、この他では得られない「仲間」という宝です。 これはこれからも大切にしていきたい。 明日は、Nさん、原稿送ってくれるんだろうか。待ってます!
by anoano21
| 2005-01-30 00:10
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